「紫様、御食事の用意が―――」

 

煩い。

 

「紫様、湯浴みの用意が―――」

 

煩い。

 

「紫様、私に何か御申しつけになることは―――」

 

煩い。

 

「紫様―――」

 

煩い。煩い。煩い。

なぜ放って置いてくれない。

なぜわざわざ私に干渉する。

私はそれを望んでいる。

ならば世界はそうであるのが当然であるはずだったのに。

 

「―――紫様」

 

なぜ私に関わる。

私に関わるものは全て消失する。

私に関わるものは全て消散する。

私に関わるものは全て霧散する。

私に関わるものは全て、この世からやがて消えてゆく。

 

私は、全てを消し去るためだけに存在する。

私に関わる事は自らを捨てるのに等しい。

だのに、なぜ私に関わろうとする。

 

わからない。

わからない。

わからない。

 

 

月明かりが何者かによって遮られる。

微かな息遣いと小さな衣擦れの音だけが辺りに響き渡る。

それ以外に音はない。

静寂の世界。

じっとこちらを見つめている。

口を開くのもおっくうだったが、私が何も言わなければこの少女はずっとこのままで居るのだろう。

別にそれでも構わない。

無意識の内に放たれる力でこの少女がどうなろうと、しったことではない。

私は神隠しだ。

そこにいるだけで全てのものが消え去ってゆく。

 

―――けれど、心のどこかが何かを叫んでいた。

 

「……何の用かしら。」

「私に何か用はありませんでしょうか。私は長老様から紫様のお世話をするよう言われております。何なりとお申しつけください。」

「私は何度も言っているでしょう。もう二度とくるな、と。」

命令しているはずなのにまるで懇願しているようだ、と私は思った。

 

ああ、わかっている。いまごろ少女は悲しそうな表情をしているのだろう。

あの少女が私のところに来ているのは契約からだった。

あの少女が生まれるよりも昔からの誓約だった。

この少女には何の咎もない。咎があるとすれば私の方だ。

私が勝手な理由でこの少女を生まれてからずっと縛り続け、そして今は拒絶している。

 

あの日まで世界は私のものだった。

望めば何でも手に入る。

望めば何でも出来る。

自分の思い通りにならないものなどなにもなかった。

 

寂しさという言葉すらしらなかった。

孤独という言葉すらしらなかった。

恐怖という言葉すらしらなかった。

驚愕という言葉すら知らなかった。

絶望という言葉すら知らなかった。

 

誰かと一緒に居たいと思うようになるとは、思ってもいなかった。

その人と別れることになるとも思ってもみなかった。

私の力は、私の思い通りになるものではないのだとその時に初めて知った。

 

「―――――――――」

再び静寂が辺りを支配する。

月明かりに照らされた小部屋には何もない。

壁は平坦、床も平坦、天上も平坦。

起伏の無い石造りの牢獄の中で今日も一人と一人は黙っている。

無為に時間が過ぎる。

無為に時が流れる。

 

―――月が沈み、朝になる。

 

後三日。それがこの少女がここにいる期限だ。

それまでにこの少女を気に入ればこの少女を貰うという契約だ。

だから、後三日。

何もしなければいい。

じっとしていればいい。

何をする必要もない。

何をしてもらう必要もない。

ずっと、黙っていればいい。

 

少女が深々と一礼する。

「朝餉の用意をして参ります。」

足音が次第に遠ざかってゆく。

遠くから規則正しい音が聞こえてくる。

故意にそれを無視する。

 

思い出してしまう。

あの楽しかった日々を。

思い出してしまう。

あの悲しかった日を。

 

ある日気まぐれで一人の少女を食べなかった。

その少女は私の事を怖がらなかった。

その少女は私と一緒に暮らしていた。

私は始めて安らぎというものを知った。

私は始めて家族という者を知った。

私は生まれたときから一人だった。

私は生まれながらに全てを持っているのだと思っていた。

 

―――けれど、それは違っていた。

 

その少女にとっては長い年月が過ぎた。

私にとっては一瞬の時が過ぎた。

 

ある日、既に女性となっていた少女が里へ帰りたいと言い出した。

私はその願いを拒まなかった。

必ず帰ってくると思っていたから。

女性となった少女が私の庇護下にあるということは付近の妖怪には知れ渡っていた。

だから、何も起こらないはずだった。

けれど、女性となった少女は帰ってこなかった。

私はずっと待っていた。

御土産を楽しみにしていてくださいね、と言っていた。

遅くなっても心配しないでくださいね、と言っていた。

私はその言葉を信じて待っていた。

 

けれど、一向に戻ってこなかった。

一月が過ぎた頃になって私はついに待ちきれずに村へと降りていった。

私にとっては一月などというものは瞬きをするに等しい時間であったのに、私はそれすらも待ちきれなかった。

何をしているのか知りたかったから。

その人と一緒にいるのが楽しかったから。

けれど、村に女性となった少女はいなかった。

私は村人達に尋ねた。

どこにいるのかと。

村人たちは私に平伏しながらこう言った。

あの女性は半月程前に山にお帰りになりました、と。

 

 

 

 

「紫様、おはようございます。今日も良いお天気ですよ。」

「相変わらず早いのね、縁(えにし)。」

その答えに縁はくすくすと笑う。

「紫様は起きるのが遅いのですよ。私達のような人間は日が昇ると同時に起き、日が沈むと同時に寝るのが当たり前なのです。」

「そういえばそうだったかしら。あまりよく覚えていないのだけれど。」

「うふふ、紫様は相変わらずですね。とりあえず昼餉の用意はしてあります。いらっしゃってくださいな。」

そう言って縁は深く一礼をした後、きびすを返し居間へと歩いてゆく。

その後ろ姿をなんとはなしに眺めながら、紫は小さく伸びをした。

「相変わらず縁は働き者ねえ……」

妖怪を奴隷としておいていたことはある。

紫が命令したことのみやる人形の様な存在。

今自分の世話をしている縁とは比べ物にならない。

縁は自らの考えで動き、自らの考えで働く。

小さい頃贄として捧げられていたものを気まぐれで生かしておいた。

今までに何度かそのような戯れはあったが、どれも長くは続かなかった。

誰もが紫を恐れ、必要以上におののき、紫の顔色ばかりうかがっていた。

妖怪を奴隷としているのとあまり変わりがなかった。

だから殺して食べた。他の贄と同じ様に。

けれど、縁は違っていた。

「そろそろ行かないとまたうるさくなるわねぇ……」

本当はまだ眠かったのだが、起きない限り何度でも縁は自分の事を起こしにくるのだろう。

スキマに逃げ込んでもよかったのだが、そこまでして寝るのも何となく気が引けた。

「紫様〜?」

遠くから声が聞こえてくる。

縁が私を呼ぶ声だ。

「紫様〜?」

世界は全て私の思い通りになるとおもっていたのだが、どうやらそれは違ったらしい。

他人に何かを強要されることなど無いと思っていた。

縁と出会うまでは。

 

さて、と小さく呟き立ち上がる。

「今行くわ。」

それだけ縁に言葉を返し、ゆっくりと歩き始める。

今日の食事は何なのだろうか、とどうでもいいことを考えながら。

 

「どうですか、紫様?」

縁がにこにこと笑いながら私の顔を覗き込んでくる。

その表情に何とはなくくすぐったさを感じながらその気持ちをわざと無視して紫は黙々と食事を続ける。

今日のおかずはカブの漬物に近くの川で取れたというイワナの丸焼き。それとセリの胡麻和えだった。

相変わらず縁は料理が上手いわねえ、と思いながら紫は箸を動かす。

「紫様?」

「ちゃんと食べ終わってから言うからそんなにせっつかないの。子供じゃあるまいし。」

「紫様から見ればどれだけ年を取っていたとしても人間は皆幼子の様なものではないのですか?」

「そんなこともないとおもうわ。」

「そうなのですか?」

「ええ、そうよ。」

「不思議なものですねえ。紫様でもそう思う相手がいらっしゃるのですか。」

私は貴方の方が年上に思えるわ、と口に出さずに呟く。

「それで、どうだったのでしょうか。今日の料理は。」

「もう、わかったわよ。お・い・し・い・わ。これでいいのかしら?」

「ええ、勿論です。お褒めにあずかり光栄ですわ。」

嫌々言葉を発する紫を楽しそうに眺めながら、縁は再びくすくすと笑い始める。

その縁の姿を横目で眺めながら、紫はふう、と小さく溜息をついた。

「思い通りにならないものねえ。」

「何がですか?」

「色々、よ。私の方が断然長く生きていると言うのにあなたのほうが上手く出来る事が山ほどあるじゃない。それが悔しいのよ。」

「私としては全てが出来る必要など無いとかんがえていますけれど。出来ない事があるからこそ人は助け合うのです―――ああ、紫様は人ではありませんでしたね。」

「出来ない事、ねえ。」

「どうかなされました?」

紫の心境が微妙に変化した事を悟って縁の態度が少し変化する。

こういうところもいくら時間が経とうと自分では真似ができないのだろうな、と紫は思っている。

「なんでもないわ。」

そっけなく言うが縁はわかっていますよ、と言いたげに紫を見つめている。

自分は全ての物事が出来ると思っていたのだが、縁が着てからはその考えは木っ端微塵に打ち砕かれた。

要するに、自分は何もしらなかっただけなのだ、と思い知らされたのだった。

出来ない事があることを知らなければ。自分が出来る事のみしか知らなければ。

全ての物事が出来ると思い込むのは当然の事だろう。

要するに、ただそれだけの事だったのだ。

それにしても、と縁が口を開く。

「紫様はなぜそんなにも人間臭いのでしょう?」

「さあ、しらないわ。私は生まれたときからこうだったから。」

「たまに突拍子も無い言動をするのは妖怪らしい様な気もしますが。結局の所紫様が何を考えていらっしゃるのか未だに理解できない事が多々あるのですよ。」

「そんなものよ。全てを理解されるようじゃ一緒にいてもつまらなくなってしまうのではないのかしら?」

「そんなことありません。」

その言葉に対してだけは縁はゆずらない。

他の事には柔軟な態度を見せる縁だったが、私の事を全て理解しようという試みは決してやめようとしない。

いつもの事だ。

縁は自分の事を全て理解したいらしい。

十年以上経った今でも縁はその言葉を言い続けている。

未だに私は縁の事を理解できてはいないらしい。

ふと、昔を思い出した。

 

 

深い森の中。一人の少女と一人の神隠しが向かい合っていた。

少女は籠の中に座っている。長く美しい黒髪が藍色の着物に映えている。

少女は何も言葉を発さない。

紫は一歩一歩少女の傍へと歩いてゆく。

 「貴方、私の傍に居るつもりは有るかしら。」

 「どういうことでしょうか。」

 その返答に紫は少し驚いた。

 「あなた、私を怖がらないのね。」

 「ええ、怖がる理由がありませんから。」

 「変な子ね、貴方は生きて里に帰れること等ないのに。」

 「それは、承知しております。」

 そう言って少女が紫に深々と一礼した。

 「私の体は貴方様の物。私の心は貴方様のもの。私の魂は貴方様のもの。私の全ては貴方様のために存在しております。死ねというなら死ぬことすら恐れません。命じていただけば何でも致します。」

 「変わった子ねぇ。」

 そう言って紫は苦笑する。

 「私は贄を要求したはずのだけれど。」

 「ですから、私は逆らうつもりなどありません。この身は貴方様のために存在しております。」

 その言葉を聞いて紫が少し黙り込んだ。

 静寂が辺りを支配する。

 紫の妖気に当てられて虫の鳴き声すら聞こえていない。

 「何故貴方はそんなに変なの?」

 「私は生まれたときから紫様の贄となることが決まっておりました。」

 「だから死ぬのは怖くない、と?」

 「はい。」

 「変な子。」

 そう言って紫はくすくすと楽しそうに笑った。

 「ねえ、貴方家事は出来るのかしら?」

 「私のとりえは家事ぐらいしかありません。」

 「なら丁度良かったわ。はじめにも言ったと思うけど、私の家に着なさい。色々とやってもらうことにするわね。」

 そう言って紫がスキマを展開する。そこに紫が先に身を投じると、少女も黙って紫についてきた。

 「貴方、本当に私に従うのね。」

 「はい。怖がる必要はありませんから。」

 「一応聞いておくわ。名前、なんていうのかしら。」

 「名前ですか。」

 「あら、聞かれたくないの?」

 「そんなことはありません。私の名前等覚えてもらう必要が無いと思いまして。」

 「それは私が判断することよ。」

 「……大変失礼致しました。八雲縁と申します。」

 「そう、縁。これからよろしく頼むわね。」

 

 スキマから身を出す。着いた場所は紫の住処。

 後ろから縁が付いてくる。やはり逃げようとはしない。

 「じゃあ頼むわ。」

 「何を、でしょうか。」

 「別になんでもいいわよ、思ったとおりにやりなさい。私は寝るわ。」

 「そうですか、お休みなさいませ。」

 後ろからの声を背にうけながら紫は寝室へと向かう。

 もしも、自分が起きたときに気に入らない事があればやはりあの子を食べてしまおうと思いながら。

 

 トントン、と障子が叩かれるのが聞こえて目が覚めた。

 殆ど音を立てずに障子が開かれる。

 「紫様、起きていらっしゃいますか?」

 「何の用?」

 「お食事の事なのですが。材料がありませんのでどうすれば宜しいかと。」

 「人間がその辺に居たはずよ。それを調理しなさい。」

 確か数人残っていたはずだ、と思う。つい最近村を丸ごと一つ消し去って人間を山ほど取ってきた残りだ。

 「人間はおいしくありませんよ。他の物にしませんか?」

 「やっぱり人間を料理するのには抵抗があるのかしら。」

 「そう言う事ではありません。命令ということでしたらやらせていただきます。ただ、人間はおいしくないと思いますので。」

 その言葉に紫は少し黙り込んだ。

 「本当に変な子。私が命じれば人間を調理するのかしら。」

 「もちろんです、それが紫様の望みでしたら。私は只単に紫様においしい物を食べていただきたいと思いまして。」

 「別に何でもいいわ、すきになさい。」

 

 「あら、ずいぶんと手が込んだ物を作ったのね。」

 「別にこの程度でしたら苦労はしませんでしたが。」

 食事のために起きてきた紫の目の前に置かれていた物は、近くの川で取ってきたものと思われるニジマスを焼いた物と、しいたけの丸焼き。後は大根と人参が入った味噌汁とご飯という組み合わせだった。

 「そんなことないわ、上出来よ。いままでにこんな料理作ってくれた妖怪なんていなかったもの。せいぜい人間を捌くぐらいね。」

 「紫様はやはり人間がお好きなのですか?」

 「どうなのかしら、良くわからないわ。私は生まれたときから神隠しだったから何も考えずに贄として捧げられている人間を食べていたから。人間以外のものを食べた事が殆ど無いと言った方が正しいかしら。」

 「それでは、これからは私が誠心誠意を持って料理をさせて頂きますよ。紫様が人間等を食べなくて宜しい様に。」

 そう言って縁は深々と一礼をした。

 「どうぞ、お召し上がりください。」

 

 「それにしても、縁はなんで私の事を聞きたがるのかしら。」

 「私は紫様の物です。ですから、私は紫様の事をもっと知っておきたいのですよ。」

 「そんな事言われたの初めてよ。皆私を怖がるばかりでちゃんと会話したことなんて殆ど無いもの。」

 「私は死ぬまで紫様の傍にいますから。お話がしたい時がありましたら何か言って下されば付き合わせて頂きます。」

 やっぱり変な子。

 紫はそう思った。

 

 「お風呂が見つからないのですが。紫様はいつもどこで身を清めていらっしゃるのですか?」

 「風呂なんて入らないわ、私は体が汚れる事なんて無いもの。必要ないでしょう?」

 「そんなことはありません。身を清めるというのは心を休めるのと同義です。一度お試しになってはいかがでしょう。」

 「わざわざ風呂を作れ、と?」

 「もちろん私がお作りします。紫様は入っていただくだけで宜しいのです。」

 「好きにすれば良いわ。」

 そっけなく答える紫に縁は一礼すると、軽い足音を響かせながら外へと向かっていった。一週間後には風呂桶が完成し、湯に使っていた紫が気持ち良いと言うと本当に嬉しそうに笑ったのだった。

 

 縁は落ち葉の掃除をしていた。

 季節は秋になっていて、あたりの木々は色づいていた。

 紫が縁側に何をするでなく座っていると、縁が何かを持ってやってきた。

 「変な匂い。何かしら、それ。」

 「銀杏です。料理するとおいしいんですよ。」

 「そうなの。」

 「ええ、楽しみにしていて下さいね。この季節は色々とおいしいものが手に入るのですよ。紫様がお食べになったことの無いものも沢山用意できると思います。」

 「楽しみにしておくわ。」

 楽しみ。

 その言葉はこの時生まれて初めて使った言葉だった。

 

縁は様々な事を知っていた。

紫が知らない事を山ほど。

 紫にとって縁が着てからの毎日は新鮮だった。

 

 数年の月日が流れた。

「相変わらずちゃんと仕事するのね。」

「私はこれぐらいしか出来ませんから。」

「一人の相手と長くいるのは初めてだわ。こういうのも悪くないのかもしれないわね。」

「長く一緒にいればいるほど相手のことをわかるのですよ。」

「そうかしら、私にはそれは同意しかねるわ。あいかわらず縁が何を考えているのか良く分からないもの。」

 「まあ、それは私も同じです。紫様の考えている事が私にも理解出来ないことが多々ありますから。だからこそ相手のことを理解しようと努力するのですよ。」

 「別に理解なんてされなくてもいいわ。」

 「そういう訳にもいきませんよ。」

 「そうなの、まあ好きにするといいわ。」

 

 

 

 あの時から縁は変わらない、と紫は思う。

 相変わらず縁は自分のためだけに存在しているらしい。

 里に戻りたいと一度も言った事は無かったし、相変わらずしっかりと仕事をしている。

 あの時縁は言っていた。

 人間はおいしくない、と。

 確かにそれは縁の言ったとおりだった。

 

気が向くとたまに食材を調達しに行く。

 縁は自分で行くと言っているのだけれど、この辺りには妖怪も住んでいる。縁が自分の庇護下にあると知れ渡っているから大丈夫だと言う事は分かっているのだけれど、万が一にも縁を失いたくなかった。

 いつの間にか縁が居るのが当たり前になっていた毎日。

 一人きりは寂しい。

 縁とどうでもいいおしゃべりをするのは楽しい。

 だから、縁にはずっと死ぬまで傍に居て欲しかった。

 

 私がなんでも一つだけ願い事を言っていいと縁に言ったとき、縁はこう言った。

 では、もう人間を攫わないで頂きたい、と。

 その言葉が紫には信じられなかった。

 何か縁の得になることを言うと思っていたから。

 まさか、他人の事を言い出すとは思っていなかった。 

 なぜ、と私は縁に聞いた。

 そうしたら、縁はこう言ったのだった。

 私は紫様の物です。私が何か望めるわけはありませんし、何か望みたい事もありません、と。

 

 

 日々が過ぎていく。

 紫は縁と出会ってから楽しいという言葉の意味を始めて知った。

 縁といることは楽しい。

 縁が何かしているのを見ているのが好きだ。

 縁と一緒に居る事が好きだ。

 縁とずっと一緒にいたかった。

 縁が段々と年を取っていくのを見ているのは寂しい事だった。

 いつか自分はまた一人になる。

 またすべての者から怯えられて暮らす様になる。

 私は、知ってしまったのだ。

 誰かと一緒に居ると言う事がこんなにも暖かいのだと言う事を。

 誰かに大事にしてもらうと言う事がこんなにも嬉しいのだと言う事を。

 だからこそ、今の時間を大切にしたかった。

 私には縁と比べると永遠と言って良い程の時がある。

 だから、いつかまた縁の様な人と出会えるのだろうか。

 縁が居なくなった後、またこんな時間が得られるのだろうか。

 言葉にはださなかったけれど、縁には私が考えている事がばれている様に思えた。

 

 

 あの日。

 縁は初めて里に帰りたいと言い出した。

 私は理由を問うた。

 けれども、縁は答えてくれなかった。

 絶対に戻ってきますから、と約束してくれた。

 私は縁を信じていた。

 だから、それを許した。

 縁が私を裏切る事等無いと信じていたから。

 

 

 

 けれども、縁は戻ってこなかった。

 里へと聞きに行ったが、もう戻ったと伝えられただけだった。

 私は愕然としていた。

 信じられなかった。

 縁が自分を裏切る等ということは。

 けれど、実際に縁は二度とこの家に帰ってくることは無かった。

 再び、紫は一人となった。

 ずっと、待っていた。

 雨の日も、風の日も。

 縁側で縁がいつか帰ってくるのではないかと待っていた。

 いつか遅くなりました、と笑顔で帰ってきてくれるものと信じて。

 他の人間を攫いに行く気は起きなかった。

 縁との約束だったから。

 二度と人間は攫わないと約束したから。

 その約束を破ったら二度と縁に笑いかけてもらえる日は来ない気がしたから。

 

 ずっと、待っていた。

 何年も、何年も。

 春が来て、夏が来て。

 秋が過ぎて冬が来て。

 いつまでたっても縁は帰ってこなかった。

 けれど、紫は信じていた。

 縁はいつか絶対に帰ってくるのだと。

 そう、縁は言っていたのだ。

 私は紫様のものです、と。

 私の全ては紫様のためにあります、と。

 

 

 

 もう一度、里へといってみようとあるとき思った。

 もしかすれば、里でなにかをしているのかもしれないと思ったから。

 スキマを開き、里へと向かう。

 里に着いて聞いてみたが、やはり帰っていないとの事だった。

 紫は落胆した。

 縁はどこへいってしまったのだろう、と思った。

 寂しさを心に持ちながらスキマへと入って少し進んだ頃、何かが見えた。

 

 

 

 ――――――何故。

 

藍色の着物が遠くに見えた。

 

――――――どうして。

 

その人影は動かない。

 

――――――私は。

 

スキマの中をゆっくりと漂っている。

 

――――――こんなことは。

 

体が震えた。

 

――――――望んでいないのに。

 

 「縁?」

 もちろん答えは無い。

 ああ、これは何かの間違いだと思う。

 これは夢なのだ、と。

 目覚めれば縁がいるのだろう。

 そう、こんなことがあるはずがない。

 目覚めれば、縁は私に笑いかけてくれるのだろう。

 そう、目を覚まさないと。

 こんなことが、あるはずが―――

 

 ゆっくりと流れてきた人影が紫の体とぶつかる。

 藍色の見慣れた着物。

 皮一つ無い白骨を包んでいる。

 手に持っているのは私への土産だろうか。

 ああ、そういえば縁は言っていた。

 お土産を楽しみにしていてくださいね、と。

 その土産には手を付けられた様子が無かった。

 「え、にし。」

 勿論答えなど無い。

 死んでいる。

 死んでいる。

 死んでいる。

 ここには何も無い。

 人間が生きられるはずが無い。

 だから、これは。

 私が殺したということになるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 何もする気が起きなかった。

 縁はもういないのだ。

 私が、殺したのだ。

 もう笑いかけてくれる事はないのだ。

 もう、二度と。

 縁は私を恨んでいたのだろうか。

 そんなことは考えるまでも無いだろう。

 ずっと私に仕えていたのだ。

 私がきまぐれだということはよく知っていただろう。

 だから、私がもう縁の事をいらなくなったのだと考えても不思議ではない。

 だから。

もう、二度と―――

 

 

 

 それから数千の日が過ぎた。

 私はこのまま死ぬつもりだった。

 縁と同じ死に方で。

 何も食べず、何も飲まず。

 縁と同じように苦しみながら。

 

 

 

 

 

不意にドアが叩かれた。

 縁が帰ってきたのかもしれないという微かな期待と共にあわてて玄関へと向かう。

 縁が死んでいるのは良く分かっていた。

 けれど。

 この場にわざわざ来る理由等他に思いつかなかったから。

 

 

 「失礼致します。」

 ドアを開けた紫の前で少女が一礼をしていた。

 「契約により、参上させて頂きました。何なりとお申し付けください。」

 目の前に立っていたのは狐の幼子だった。

 九本の尾が特徴的ではある。

 そういえば、いつか約束していた。

 妖狐の里をきまぐれで救ったとき。

 もしも九尾が生まれたら私のところへよこせ、と。

 

 

 約束の日時が過ぎた。

 結局、私は何も少女に頼まなかった。

 まともに会話した記憶もない。

 そんな事はできなかった。

 縁を思い出してしまう。

 少女が歩いている姿を見るだけで。

 少女の足音を聞くだけで。

 縁との楽しかった日々を思い出してしまう。

 だから。

 この日々は苦痛でしかなかった。

 けれど、それでよかったのだと思う。

 私が楽になることなど許されないはずだ。

 苦しむのは当たり前の事だ。

 けれど。

 唯一、悪いと思っていることがあった。

 この少女に寂しい思いをさせてしまった。 

 この少女は縁と同じなのだ。

 生まれてからすぐに私に付き従う事を定められていた存在。

 私が拒絶すれば何にも残らないのかもしれない。

 けれど。

 私にはどうしようもなかった。

 

 

 

 「長い間、ありがとうございました。」

 少女が礼儀正しく一礼をする。

 その言葉に私は答えない。

 少女は無表情だった。

 私も無表情だった。

 少女が去っていくのを眺めて、紫は再び縁側へと戻っていった。

 自分はもうそんなに長くないのだろうと思う。

 だが。

それでいいのだろう、と思った。

 

 

再び数千の月日が過ぎた。

手入れをされていない庭は雑草が伸び放題で、住んでいる家にも蔦が絡み付いていた。

ずっとこの場所に座っている。

何をするでもなく。

 あれから誰も尋ねてくる事は無かった。

 当然だ。

 私に積極的に関わろうとする者などいないはずだったから。

 日に日に体はやせ衰えていっていた。

 妖力もどんどん低下していっていた。

 もう今が何時なのかも良く分からない。

 自分の意識がとぎれとぎれになっているのは感じられていた。

 けれど、何をしようとも思わなかった。

 

 

 足音が聞こえた気がした。

 とんとんという落ち着いた聞き覚えのある足音が。

 けれど、紫は振り向かなかった。

 もういるはずがないのだから。

 もう縁は死んだのだから。

 縁は自分の事を恨んでいるはずなのだから。

 だから、振り向かなかった。

 何度夢想したことだろう。

 何度夢に見たことだろう。

 縁が帰ってきて笑いかけてくれる日を。

 二度と戻らない日を。

 

 不意に誰かが自分の体を抱きしめるのを感じた。

 紫は思った。

 これは夢なのだろう、と。

 自分はもう死ぬのだ、と。

 最後に幸せな夢を見て死ぬのはどうなのだろう、とも思った。

 

 声が聞こえた。

 聞きなれた声が。

 自分を呼ぶ声が。

 気が付いたら後ろを向いていた。

 夢だと分かっているのだけれど。

 夢の中でもいいから縁に会いたかった。

 

 「紫様、ずいぶんとおやつれになられましたね。」

 「縁、私を恨んでいるのではないの?」

 その問いに縁は心底不思議そうな表情をした。

 「私が紫様をでしょうか。どうしてそう思われるのです?」

 「私は其方を殺した。だから恨まれて当然だろう。」

 「何度も言ったはずですよ、私は紫様の物なのです、と。」

 そう言って縁は紫を再び抱きしめた。

 「私は紫様を恨んでなどおりません。」

 「何故。」

 「どうして恨めましょうか。紫様はずっと苦しんでおられました。私が悪かったのです。里に戻りたいなど申し上げたから。」

 「でも縁は死んだわ。スキマに飲み込まれて。」

 「そんなことは関係ありません。紫様の意思ではなかったのでしょう。」

 「だからといって許される事ではないと思うわ。私とスキマは同義。私の存在があるからこそスキマが存在している。だから―――」

 その言葉を縁は紫の前に手を上げて止めた。

 「私は紫様を今でもお慕い申し上げております。」

 「どうして―――」

 体が震えて上手く言葉が出ない。

 「どうして私を恨んでくれない。どうしてそんな顔で笑うのだ。罵られた方がずっとましだ。」

 「恨んでいないのに何故恨み言が言えましょう。こればかりはご命令とあっても譲る事は出来ません。」

 そう言って三度紫を深く抱きしめる。

 「お慕い申し上げております。ずっと愛しておりました。まるで家族の様に。紫様と過ごした日々はまるで夢のようでした。」

 「え、にし。」

 頬を熱いものが伝って落ちる。

 「紫様、泣いていらっしゃるのですか?」

 「そうね……」

 「紫様の泣き顔を始めて見ることができましたね。」

 そう言って紫を抱きしめたまま目を細める。

 「またいつか私の様な存在が紫様の隣に現れるでしょう。その時にはまた私の時の様に優しくしてあげてくださいね。」

 「縁……」

 「ああ、もうお別れの時間のようです。」

 縁の体がゆっくりと薄まってゆく。

 「行かないで縁。其方は私の物なのでしょう。だったら、行かないで。私と一緒にずっといて頂戴。」

 その懇願に縁は悲しそうに首を振った。

 「私は既に死んだ存在です。紫様と最後におしゃべりが出来ただけでも幸せな事なのです。わがままをおっしゃらないでください。」

 縁の体が紫をすり抜けた。体の輪郭すらもぼやけてよく見えなくなる。

 紫が立ち上がって縁の顔を正面から見た。

 縁は幸せそうな表情で微笑んでいた。

 「縁。」

 「紫様。」

 「……何かしら。」

 「私の心は、いつまでも貴方様と共に―――――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一匹の狐が地面に倒れていた。

九本の尾を持った狐が。

体中が血まみれで。

息も絶え絶えに。

紫はそれを見てやっと理解した。

この子が私と縁を会わせてくれたのだ、と。

そして、今そのせいで死に掛けているのだ、と。

自らの限界を超えた力を使い。

自らの命を削って。

私と縁を会わせてくれたのだ。

そっとその子を抱き上げる。

スキマを開いて妖狐の里へと向かう。

 

 

妖狐の里にあの子を預けた後、紫は再び縁側に座ってじっとしていた。

あの血まみれの子狐の姿が目に焼き付いていた。

何故あんな事をしたのか分からなかった。

私はあの子に何もしてあげていないはずだ。

何も命じなかった。

何も与えなかった。

けれど、あの子は自分の命を削って私を縁と会わせてくれた。

何故だろう。

良く分からなかった。

 

 

縁の事を考える。

縁はいつも笑っていた。

あの子の事を考える

あの子はいつも俯いていた。

私に拒絶されて。

寂しそうに俯いていた。

縁は私の贄だった。

あの子も私の贄だった。

だから、あの子は私を少しでも幸せにしようと考えたのだろうか。

 

――――――よく、分からなかった。

 

 

それからさらに数日が過ぎた。

誰もここには来なかった。

今でも良く分からない。

何故あの子があんなことをしたのか。

あの子は私が拒絶した時点で私の贄ではなくなったはずだ。

なのに、何故自らの命を捨てるような事をしたのか。

ずっと考えていた。

ずっと、考えていた。

縁だったらなんと言うだろう。

「私が紫様に何かをするのに理由が必要なのでしょうか?」

そんな言葉が頭に浮かんだ。

あの子は贄としてではなく自分の意思で私のために縁と会わせてくれたのだろうか。

そんな考えが頭に浮かんだ。

 

 

妖狐の里に着いた。

辺りから敵意の視線を感じる。

皆が私を睨んでいた。

真ん中に座る長老の隣にいる女性が私の事を悲しそうに眺めていた。

「あの子に会わ―――」

その言葉は辺りからの怒声によってかき消された。

皆が私に向かって叫んでいた。

何様のつもりだ。一体何を考えている。あの子に何をさせたんだ。お前は拒絶したのではなかったのか。力を失ったお前なぞ怖くは無い。

怒りの声が紫の耳へと飛び込んでくる。

今になってやっと分かった。

縁がなぜ人を攫わないで欲しいと言ったのか。

消えると言う事はこういう事なのだ、と。

私にとってはどうでも良い相手だとしても。

他の人にとってはそうではないのだという事が。

 

長老が手を上げて周りの者を止める。

声は止んだが敵意の視線は止まらない。

紫は黙っていた。長老も黙っていた。

ゆっくりと長老の隣に立っていた女性が紫の目の前まで歩いてくるのを待っていた。

その女性が静かに口を開く。

 「あの子は、紫様のお役に立てたのでしょうか。」

 その言葉が胸を突く。

 「言うまでもないことを聞かないで欲しいわ。」

 「そう、ですか。」

 その女性は力なく笑っていた。

 「でしたら、私があの子を生んだ事は無駄では無かったのですね。」

 つ、と女性の瞳から涙の雫が垂れ落ちた。

 「あの子に会ってあげてください。紫様が来たと聞けば喜ぶ事でしょう。」

 「……勿論そうさせてもらうわ。」

 「私が案内をさせて頂きます。ついて来て下さい。」

 そう言ってゆっくりと歩いてゆく女性の後ろを着いてゆく。

 敵意の視線は止まない。

 けれど、誰一人として言葉を発そうとする者はいなかった。

 

 

 「どうぞ、この奥になります。」

 「そう。ありがとう、迷惑をかけたわね。」

 「御気になさらず。」

 そう言って女性は深々と一礼をして、障子をゆっくりと開けた。

 そこには少女が一人布団の上に倒れていた。

 血の気が無い。

 息が荒い。

 生きているのが不思議と思えてしまう程だった。

 「……紫、様?」

 「あまり喋るな。見舞いに来た。」

 「ああ、感激です。紫様にもう一度お会いできるなど。」

 「もう一度、等というな。」

 「いえ、自分の体は自分が一番分かっております。」

 そう言って少女が黙り込む。

 紫も黙り込む。

 お互いに静かに見詰めあっている。

 「申し訳、ありませんでした。」

 「何の事かしら。」

 「私の力では、あの程度の事しかできませんでした。本当はもっと時間を取るべきだとは分かっておりました。けれど……」

 ああ、どうしてこんな事を言うのだろうか。

 自分がそのせいで死に掛けているというのに。

 「そういえば、其方の名前を聞いていなかったな。」

 「贄、と呼ばれておりました。」

 「……そうか。」

 再び二人して黙り込む。

 「どうして其方はそこまでしたのだ?」

 「私がしたかったからというのは理由になりませんでしょうか。」

 「何故そう思う。私は其方に何もしてあげていない。まともに会話してもいないし、其方の行為を殆ど無為な物とした。だのに何故――――――」

 その言葉に少女は微笑んだ。

 「それは紫様のせいでは御座いません。縁様を失った心の傷が癒えていなかっただけでしょう。縁様はずっと紫様を見ておられました。そして、あのとき私に頼まれたのです。一度でいいから紫様とお会いしたいと。」

 「そのせいで其方は死に掛けているのだ。それでも良いと言うのか?」

 「はい、勿論です。」

 一瞬少女と縁が重なった気がした。心底嬉しそうな笑み。私だけに向けた純粋な笑顔。

 「何故。何故其方も縁も私を恨まない。縁が死んだのも其方が贄と呼ばれていたのもこうして死にかけているのも私のせいだというのに!」

 息が詰まる。両目から雫が落ちる。

 「泣いて、おられるのですか?」

 「ああ。私は神隠しだ。存在しているだけで全てを消し去る存在だ。だのに何故其方達は私にこうも優しくする。それが分からないのだ。」

 「簡単な事です。私が紫様に笑っていて欲しいと思ったからです。」

 「笑って……?」

 「はい。私が始めて紫様を見たとき、そう思ったのです。悲しんでおられる紫様に笑って頂きたいと。」

 「それは、命をかけるに値する事だとおもうの?」

 「はい。私は生まれたときから紫様のために存在しておりました。その私が望みを持ってしまったのです。紫様に笑っていただきたいと。ですから、それは私の命をかけるのに相応しい事なのでしょう。」

 少女の声が段々と弱くなっていく。

 「死ぬな。死なないでくれ。私をまた一人にするつもりか?」

 「一人ではありません。縁様はずっと紫様をご覧になっている事でしょう。そして私も紫様の傍を離れるつもりはありません。」

 「だが、私は其方の事を殆ど知らない。其方は私の事を想ってくれているのに、私は其方にまだ何もしてあげられていない。」

 「……でしたら、一つだけ願いがあります。」

 「何でも言って欲しい。」

 「私の事を、忘れないで頂きたいのです。いつか私は転生して貴方様の元へと参ります。その時に、私を受け入れて頂きたいのです。」

 「そんな事か。お安い御用だ。」

 紫が笑いながら言うと、少女は嬉しそうに笑いながら紫の方へと手を伸ばした。

 「ああ、楽しみです。いつか。紫様と共に暮らせる日を、楽し―――」

 そう言って少女の腕が落ちる。そして、それきり動く事は無かった。

 

 

 

 それから幾万の月日が過ぎた。

 縁との約束通り人間を食べる事は無かった。

 ずっと、待っていた。

 いつか少女は戻ってくると約束してくれた。

 だから、紫は待っていた。

 紫は信じていた。

 あの子はいつか戻ってくるのだと信じていた。

 だから、ずっと待っていた。

 

 

 ある日、妖狐の里に九尾が生まれたという話があった。

 すぐにでもそこへ向かいたかった。けれども、じっと我慢していた。

 いつか、自分の所へ来ると信じていたから。

 

 

それから数千の月日が過ぎたとき、不意にドアが叩かれた。

自分に落ち着くようにと言い聞かせながらゆっくりとそのドアのところへと向かい、ドアを丁寧に開ける。

「いらっしゃい、どなたかしら。」

「始めまして。」

「あら、可愛い九尾さんね。どうしたの?」

「えっと……」

その少女は困ったような表情を見せた。

「良く分からないんです。」

「良く分からない?」

「はい、良く分からないんです。」

でも、と少女は続けた。

「何故かここにこなければいけない気がしたんです。」

「あら、そうなの。なんていう名前なのかしら?」

「はい、藍といいます。紫様の好きな色だと……あれ、何で私知っているんでしょう。」

その言葉を聞いて紫は心が震える想いがした。

帰ってきてくれたのだ、約束通りに。

自分に落ち着けと言い聞かせながら言葉を紡ぐ。

「ふふ、藍。知っているとおもうけど、私は紫。八雲紫よ。」

「そうですか、紫様。八雲様とお呼びしたほうが宜しいでしょうか?」

「その必要は無いわ。いつか貴方も八雲の名を継ぐことになるとおもうし。」

 「わ、私がですか。そんな恐れ多い……」

 「今すぐじゃないわ。藍が八雲の名を継ぐに相応しい存在になれたらよ。私はなれると信じているけれど。」

 「はい、頑張ります。」

 「ふふ、期待しているわ。」

 そう言って紫は笑った。

目から涙が一滴零れ落ちる。

 

嬉し涙。

 紫にとって初めての。

 こんな風に泣ける等とは思っていなかった。

 自分はずっと恐れられ続ける存在なのだろうと、想っていた。

 縁に会うまでは何も知らなかった。

 縁は私と藍を繋いでくれた。

 だから、縁にお礼を言いに行こう。

 今頃お墓の周りは花で埋め尽くされているはずだ。

 初めて出来た私の家族だった存在。

 八雲の名は続いてゆくのだろうか。

 ああ、藍色の花を持って行こう。

 次は藍と一緒に。

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